プロフィール・経歴・人生

出来事
1924年
(大正13年)
4月25日
岐阜県で生誕。
1942年 岐阜県立岐阜工業高校(当時:岐阜県第一工業学校)卒業。
1950年 日本トムソン(当時:大一工業)を設立。社長に就任。
1971年 機械メーカー「THK」(当時:東邦精工)を設立。社長に就任。
1972年 直動運動用案内ユニット「LMガイド」を製品化した。
1986年10月13日 妻の寺町全子(てらまち・まさこ)さんが逝去。55歳という若さだった。死因は脳卒中。東京都世田谷区の大脇病院で亡くなった。
1989年 科学技術庁長官賞を受賞(直線運動用案内ユニットの開発で)。
1989年 THKの株式公開(店頭公開)
1991年 紫綬褒章
1993年 商品先物取引で大掛かりな仕手戦を展開し、失敗。100億を超す損失を出した。
1997年 THK社長を退き、会長に就任。(社長は、長男の彰博氏に譲った)
2001年 勲三等瑞宝章を受章。
2003年6月 フジフューチャーズ会長兼社長。
2012年9月11日 死去。88歳だった。死因は大動脈弁狭窄症だった。

世界進出

寺町博社長は、THKの世界展開を積極的に進めた。

英メーカーの買収を陣頭指揮

社長自らの陣頭指揮により、THKは1992年、英国のボールねじメーカー「ピージーエム・ボールスクリュー社」(略称:PGM)を買収した。買収額は約9億円だった。

ほかのベアリングメーカーに比べTHKは、ボールねじの分野が弱かった。PGMはボールねじメーカーとしてはシェア約25%だった。英国第2位に位置した。精密研削ボールねじを主体に、転造ボールねじ、特殊ボールねじなどを製造していた。

欧米全域、北米、アジアなど全世界に販売していた。航空機関係にも販売ルートを持っていた。技術的にもかなり高いレベルにあった。経営がおかしくて身売りした企業ではなかった。

お別れの会

寺町博さんが亡くなった後の2012年10月、「お別れの会」が東京都内のホテルでしめやかに執り行われた。産業界の要人ら約1200人が献花し、故人をしのんだ。

お別れの会委員長の横山元彦日本工作機械工業会会長(ジェイテクト会長)は「工作機械産業の発展に多大なる貢献をしていただいた」と功績をたたえた。

稲葉善治ファナック社長は、稲葉清右衛門名誉会長の弔辞を代読した。「全身からあふれんばかりの創意工夫に満ちた類い希なる技術者だった」と別れを惜しんだ。

喪主で長男の寺町彰博THK社長は「私どもが当社をしっかりと発展させたい」とあいさつした。

後継者

THKは長男の彰博氏に禅譲

子供は3男1女。このうち、長男の彰博氏がTHK社長を継いだ。1997年のことだった。

参考:https://furukawakiko.com/news/

先物投資会社は、有宗良治氏を後継に

先物投資会社のフジフューチャーズは、亡くなる年まで代表取締役に就いていた。

右腕の専務

亡くなる前に、有宗良治氏(現:スナップアップ投資顧問代表、ストックジャパン社長)をフジフューチャーズの後任社長に充てた。有宗氏は専務・社長室長だった。寺町博氏の右腕であり、参謀だった。

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